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安政7年(1860)3月3日、江戸の桜田門外で、水戸、薩摩の脱藩浪士により、大老の井伊直弼が暗殺されるという大事件がおこった。このとき、江戸だけではなく大坂でも並行して、水戸、薩摩藩を中心とした挙兵計画があった。
大坂での挙兵計画は、水戸藩士高橋多一郎が指揮を執り、川崎孫四郎ら水戸藩士、薩摩藩士や勤王の志士らが実行にあたろうとしていた。
ところが、薩摩藩が慎重策に変じ、計画が進まなくなったところ、幕吏(大坂町奉行所)にこの計画が漏れた。
桜田門外の変後間もない萬延元年(1860)[※3月18日より改元] 3月22日、生國魂神社付近にあった笠間藩士島男也宅に水戸藩の志士たちが協議のため集まった。
集まったのは高橋多一郎・庄左衛門父子、川崎孫四郎、山崎猟蔵、大貫多介、小室治作、黒沢覚蔵、島男也の8名だった。幕吏から逃れるため翌日、住吉へ場所を移すことが決まり就寝した。早暁(23日)逃れる直前、幕吏が取り囲んだ。
川崎孫四郎は高橋父子をその場から逃して防戦したが、深手を負ったため自刃を試みた。自刃し死に切れないでいるところを捕らえられ、翌日死亡した。
島男也は捕らえられた後、江戸の伝馬町の牢に送られ、文久元年(1861)11月5日牢死した。そのほか、高橋多一郎、庄左衛門父子は、囲みを破り四天王寺まで逃れたが、同寺内で自刃。(高橋父子の墓が四天王寺境内にある)
この計画に加担していた坐いかすり摩神社の神官佐さくらあずまお久良東雄も捕えられ、江戸伝馬町の牢獄に送られ6月獄死した。
司馬遼太郎住居跡も行きました。司馬さんは守口に住んでいたのか。西区のマンションしか知らなかったし、「梟の城」を書いたのもここと聞いてビックリ。 Image may be NSFW. Clik here to view.
文禄堤を歩き次の案内場所へ。
5 第14代将軍徳川家茂宿泊の地
守口宿とお別れして大阪市内へ京街道を進む。
『文久3年(1863)3月、第14代将軍徳川家茂は、第3代将軍徳川家光以来、230年振りに上京した。
この時、家茂は朝議で攘夷実行期限を五月十日」と約束させられる。
家茂は、4月23日に大坂城へ入城した。大坂城へ将軍が登城するのも家光以来のことだった。
家茂は5月11日まで大阪に滞在したが、その期間中に宿泊したと伝えられるのが「木犀の陣屋」である。時期は、文久3年4月と伝わっている。
この陣屋とは、庄屋の浅田家の屋敷で、庭に木犀の木が三本あり、これらの木から醸し出す香りが、遠くまで漂っていたことから「木犀の陣屋」と呼ばれていた。
しかし、「徳川實記」で見る限り、家茂が大坂城以外で宿泊したのは、岸和田にて順動丸で碇泊した4月28日以外は記載がない。
唯一、4月26日に大坂城から離れて、数か所の新田会所を訪れている。その時にここを訪れて小休止したのが宿泊に誤って伝えられたものかもしれない。また、その後、家茂は2回、大坂城へ入城し、最終的には大坂城内で亡くなった。』 Image may be NSFW. Clik here to view.